はじめ氏のHPを御覧の皆様。初めまして。はじめ氏の旧友であり皆様と同じくこのHPの支援者の一人、Mと申します。

彼とは十年来の旧知の仲で、互いに刺激しあいながら青春時代から現在までを過ごしてきました。今回はその彼からコラム的なるものを依頼され、微力ながらHP活性化のために尽力しようと文章を認めました。日々を通じて感じたことを思いつくままに書き連ねただけの駄文ゆえに、至らない部分もあるでしょうが是非お付き合い下さい。

長い付き合いのある私から見た、はじめ氏の数ある魅力の一つとして、そのユーモア・センスが挙げられます。昔から私も彼もお笑いへの興味は尽きず、今にして振り返ってみると、周囲に笑いを提供することに青春の大部分を費やしてきたように思います。特に彼は、世俗の通念に縛られない破天荒な哲学を持つことsが美徳であると考えていたようです。(彼の名誉のために付け加えておきますが、反社会的思想を持っていたということではなく、世間の常識を知ったうえ、日常に差し支えない程度に社会的に許される範囲内で、敢えて常識を逸脱する行為に魅力を感じていたということです。彼は非行に走ることもなく成績も優秀でした。)

友人である私も、彼の言動や行動を傍から見て

「もっと普通にすればいいのに」

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と思うこともしばしばです。先日、久しぶりに帰国した彼に会い、その風貌(坊主頭にドレッド髭、真っ黒に日焼けした全身からこぼれ落ちる皮膚)には閉口してしまいました。

さて、前置きが少々長くなりましたが、今回はそんな彼を切り口に、「エンターテイメントとしての笑い」について浅はかながらも論じていきたいと思います。

笑いをとるにはどうすればよいか?笑いの仕組みとは?いい大人からすれば、どうでもよいことのように思われますが、これらの問題に挑むことは二十歳を優に越え、社会の構成員となった現在の私にとって、そしてそんな私と同齢のはじめ氏にとっても恐らく、人生における最も大きな関門です。

笑いを知り、自在に操ることが出来れば、みんなの人気者になれることは必至です。それは、はじめ氏や私を含む醜悪な容姿(もっとも、はじめ氏の場合はそれが狙いですが)であるという一面のみで世の異性たちに忌み嫌われ、苦痛を強いられている者にとって、理不尽な社会を生きるうえでの、唯一残された希望なのです。

そんな我々の生命線となる笑いの本質を探るために、我々が日々接触している笑いについて深く掘り下げていきましょう。

現在、笑いは娯楽として、テレビやラジオ、雑誌などのメディアを通して容易に楽しむことが出来ます。落語や漫才、コントやコメディ、ギャグ漫画などなど、その手法は様々です。そんな笑いの手法を解体し、最後に残るものを本質として考えると、笑いのメカニズムも明らかになるはずです。数あるお笑いエンターテイメントに共通するものを探し出すのです。

とは言っても、あらゆる時代や文化や地域の垣根を越えて、笑いに総じて含まれている要素を見つけ出すのは困難なように思われます。脚本家や漫画家が人為的に作り出した笑いはNG集やハプニング集のような笑いとは本質的に違います。また古い時代の漫談や、海外コメディドラマを観て焉A我々からすればそこに何か違和感のようなものを感じ、それほど笑いが伝わってこない場合もあります。やはり全ての笑いに通じる共通点などないのでしょうか。

そこで逆に、笑えないもの。面白くないものについて考えてみると答えは明白になります。

面白くないものとは、普通であり、常識的であり、予測のできるありふれたものです。これらは日常では当たり前にあるものとして捉えられます。そこから「笑いとは何か」の答えを導き出すと、笑いとは即ち当たり前でないものとなります。

回り諄くなりましたが、笑いの対象となるものは非日常です。これは「おかしい」という言葉が「普通でない」と「面白い」両方を意味することからも察することができます。

これは前述の、古い漫談や海外のコメディドラマの笑いが理解できないという点にも当てはめることが出来ます。

時代や文化が違えば、それぞれに通念も異なります。現在の人間と過去の人間、そして日本人と外国人の捉える普通という概念の相違によって、笑いに不可欠な発信側と受信側の通念のズレが生じ、笑いが半減するのです。

パロディを楽しむには、その対象となるものを予め知っておく必要があります。NGシーンの前には「まずはOKシーンから」のナレーションです。異常な振る舞いを笑うには正常であることを知っていなければなりません。発信側と受信側の間に共有する認識があってこそ笑いは生まれるのです。

みんなが正しいと思っていること、こうであるべきだと思っていること、笑いは常識を逸脱することで逆説的にそれを示しているのです。笑いを楽しむことは通念を確認することと言えるでしょう。

わかりやすい例が漫才におけるツッコミです。ボケの非常識とツッコミの常識の差異を並べることで通念の確認がはっきりと出来ます。あるあるネタも認識の共有があって初めて笑いとなります。
しかし近年、娯楽としての笑いを、過激で暴力的や表現や下品な内容だとして非難する声が高まっています。その論旨は、笑いが世間の良識を破壊、衰退させ、いじめや非行の原因となり、社会に悪影響を及ぼすといったものです。

先述の通り、笑いとは日常を過ごす我々に非日常を提示するものです。お笑い批判論者は現実と虚構を混同し、日常に非日常を取り込んでいるのでしょう。子供に悪影響を与えると本気で危惧している論者は、お笑いの内容が非日常だと子供に諭すことが出来ないばかりか、自らも現実を把握していないのです。こういった批判を臆面もなく採り上げる新聞やニュースといったメディアも然りです。この時点で彼らは自らの愚を露呈しています。

笑いに限らず、エンターテイメントとは退屈な現実を忘れる虚構です。それを区別できずに批判する者こそむしろ社会通念にそぐわない悪影響を及ぼす危険分子なのは明白です。

それとは逆に、彼らがお笑いを批判するという見当違いの意見を敢えて発することで、良識ある人々の笑いを誘うという意図があったのならば、私は彼らを優れたパフォーマーとして高く評価します。笑いを低俗だと揶揄する者こそ笑いの対象です。

笑いを楽しむには常識という知性が必要です。芸人や漫才師などの笑いの生産者も同様に高い知脳が求められます。コメディアンは医者や学者に並ぶインテリなのです。

兼ねてより私は一流と呼ばれる大学や学術機関で笑いに関しての研究が大々的に成されていないことを悲観してきました。一流大学のお笑い学部・漫才学科・ツッコミ専攻で学んだ者が世界のリーダーとなる。そんな革命を起こすことが私の抱いている夢でもあります。

学生時代に席の隣あう二人がペアを組み、英語で互いに挨拶するといった授業は誰しも経験があるはずです。

これが席の隣あう二人がペアを組み、医者と患者という設定で互いにコントを展開するといった授業であれば、いったいどれほどの埋もれた才能を発掘することが出来るでしょうか。

ユーモア・センスとは常識と非常識とを兼ね備えた者にしか持ち得ない特殊な能力です。さらに従来の認識を逆転させる発想、社会に抗がう勇気とタフな精神、ありふれたものから特別なものを見出そうとする知的探求心が求められます。

笑いの根底にあるその本質を理解し、ユーモアのセンスを磨くことは、人生において非常に有益です。

無意味なものに意味を感じ、無価値なものに価値を感じることが出来れば、笑いを通じて豊かな人生を歩み、如何なる局面でも文字通り笑って暮らすことが出来るでしょう。

私の目指すものは笑いを究求することで達する悟りの境地です。そして私の知る限り、その境地に最も近いと思われる人物こそ、はじめ氏なのです。時折見せる彼の理解不能な言動や行動は勿論のこと、その風貌までも、お釈迦様と地獄の餓鬼を合わせ持ったような、笑いの哲学の核心を突くものです。

今回、はじめ氏からHPを彩るために私の文章を掲載したいという要望を受け、彼独自の嗜好が反映されたHPのコンセプトに沿ったものを、他人である私が作ることは困難だと判断し躊躇しましたが、私にとって彼の依頼は神の掲示と同義であるため、場違いを承知で了承しました。

最後に、笑いを考察するという内容であるにも関わらず、文中に笑わせる箇所が皆無となった拙文を最後まで拝読して下さったあなたと、その機会を授かるに至ったはじめ氏の仕事に深く感謝します。

投稿者 mrm

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